


この文章はおもに2019年12月から2020年2月にかけて、旅の路銀集めにいそしみながら(実際はホテルの和食調理補助バイト)休憩時間の合間に無我夢中で書き尽くしたものを軸としています。
当時連載のようにしてnoteで公開したあと、巨きな絵と共にしばらく眠っていましたが、今年2022年の秋に入ってから全体的な校正を入れはじめ、「結 永遠のおもかげ」を新たに書き加えることで、ようやくひととおり形にすることができました。
最初の執筆時点ではオーストラリアを旅するために準備していたものの、その最中に広がり始めた感染症の報せを受けて、なんとも遣る瀬ない気持ちになったことを憶えています。かつて文字どおり命を削るようにして書いたアパートメントでの連載をひとつの道標としながらも、その時点では自分が思うように文章を書き終えることが出来ず、当時はまだ足りなかった旅の資金を集めるために巨きな絵のポスターを販売することなども当時構想し進めていたものの、それも結局うまくいかずに立ち消えるという有様でした。
それまでの「絵を巡る旅」がこの文章でも見てきたとおり、あまりにもうまくいき過ぎていたからなのか、うまくいかない時はとことんうまくいかないのだということを、その後新潟の実家で悶々と過ごす日々のなかでも思い知らされました。
2020年、誰が言ったか"風の時代"と呼ばれたその流れを追い風とするようにして北海道へと移住してからは、絵を描くかわりに人間として生きるうえでの現実的な問題の数多くと向き合ってきました。金銭的な問題は相変わらず立ち行かずにいるものの、人間であることそれ自体をはじめ、些細かつ内面的な個人の問題がそれまでと違った様相を見せはじめたことは、最後の文章からも幾らか伝わったかもしれません。
ここには書くことがかないませんでしたが、十勝に来てから出会ったたくさんの温かい人たち、折にふれて本州へと旅するなかで出会った人たち、そして会わずとも繋がってきた人たちの存在がなければ、ここまで辿り着くことはできませんでした。この小さな場を借りて、そのことにあらためて感謝の気持ちを述べたいと思います。本当にありがとうございました。
「結 永遠のおもかげ」で書いたとおり、来年からは巨きな絵を展示をしようと思います。そのためには現実的な問題として、やはりどうしてもお金のことがつきまとい、なんとかしなければと頭を抱えているところです。
来月から自分なりに協力を募るような動きをとろうと思っていて、少しずつ準備を進めているところです。もし巨きな絵の新たな船出の力になりたいと思われる方がいらしたら、その時お力添えいただけると、こんなに有難いことはありません。
あとがきにこんなわがままを書いてしまい心苦しいのですが、こんなにも私的な思惑にみちたこの拙文をお読みいただけたことに、まず何よりも感謝したいです。全体を読み通して感じられたことのうち、もし何か一言でも伝えたいことがあれば、ぜひお伝えいただけるとうれしいです。それもまた、次への糧となり道標となっていくものだと思います。
十勝晴れと呼ぶに相応しい澄み切った寒空のなか、こうして文章を書いているいまも陽光が燦々と降り注いでいます。
太陽はかがやかしすぎる生そのものと同様、直視することができないものですが、この地上でいつか、見ることのできる太陽をかたどってみたいです。世界する世界のなか、いまここにあるすべてとともに。
2022.11.27 熊谷隼人
美がまえにある
美がうしろにある
美が上を舞う
美が下を舞う
私はそれにかこまれている
私はそれにひたされている
若い日の私はそれを知る
そして老いた日に
静かに私は歩くだろう
このうつくしい道のゆくまま
(真木悠介「気流の鳴る音」より ナヴァホ族の讃歌)
巨きな絵と旅をした日々から、気がつけばもう三年半が過ぎていた。
闇のなかで光を追い求め続けたかのような二十代後半はいつのまにか過ぎ去り、当たり前のように三十代を迎え、その後何事もなく生きているという事実が、時々ふとたまらなく不思議に思えてくる。
いま自分は北海道の一軒家で、大切な人と一緒にふたりで暮らしている。そしてまた絵を描く日々のただなかへと、ふたたび舞い戻ろうとしている。
先月、ふたりで話をして決めたことがある。来年から巨きな絵を再び各地で展示しようということ、そしてその最後には、巨きな絵を燃やそうということを。
✳︎
一体どうやってここまで来たというのだろう。忘れようにも忘れられないことが、あまりにも多く過ぎ去った三年半だった。
出会いと別れとが波のように寄せてはくりかえしたこと、その時々の喩えようのないまぶしさが現在へと反照されるたび、絵にも詩にもならない がこぼれて、世界は揺籃する。
巨きな絵を描いてからしばらく経ったある秋の日に、ある母娘と海で出会った。
インターネットをとおしていつからか知り会い、いつか母子像を描いていただけたら、そう伝えていただいたことが直接お会いするきっかけとなった。いつだったか、自分の誕生日である5月1日がすずらんの日を意味することを、母親であり自分とそう年齢の変わらないであろうその人は教えてくれた。
海でほんの束の間一緒に過ごすあいだに、一体何が起こったのか、今でも自分にはよくわからない。けれどふたりと別れたあとで、自分はもうすでに闇をぬけて光の中にいるのだということ、光は自分の中にも内在しているのだということ、それらを伝えてくれたのが先のふたりであったことを知り、どうしようもなく目頭が熱くなった。
この世に降り立ってから初めて受けとったかのようなそれは、"たましい"という他に言いようのないものだった。帰りの車を走らせながら、シートに残っていた海の砂粒たちが散乱する粒子のようにかがやいて、瞬く間に飛び散っていった。
たとえもう二度と会うことがなかったとしても、ふたりの美しい名前と、その日以来焼きついて離れないひとつのイメージを、自分は永遠に忘れることができないだろう。
2020年初頭に広まった世界的な感染症に伴い、巨きな絵を描き終えた頃に考えていた「世界を巡る旅」はいったん延期せざるを得なくなった。それまで続けていた旅のための資金集めも断念して2020年4月には地元の新潟へと戻り、「この先どうするべきか」という問いと独りでひたすら向き合い続けていた。
新潟の実家で過ごす日々は、それまで絵をとおして翼を広げたような気持ちでいた自分にとって、現実という白日の下に何もかも晒されるようで苦しかった。絵との繋がりもどこか遠のいてしまったような気がして、必死でその繋がりを再び追い求めようとしていた。
一方でそれまで制作一辺倒だった生活を省みたい気持ちもあり、新しい土地で一度生活を見直すことを考えはじめた。8月に十勝の大根収穫バイトへ行ったことをきっかけに、半年後には北海道へと引越すことが決まった。
先送りとなった「世界を巡る旅」を念頭に置きながらも、それはまぎれもなく新しい旅のはじまりだった。思えば旅は生きている限りずっと続いていて、自分はただ遠くを歩きたかったのかもしれない。
北海道に移住してからしばらくの間、養護学校で働くことになった。思いがけずそれまでになく収入が安定し、学校の繋がりで3LDK・月約1.3万という条件の公宅を借りられたこともあって、生活をゆっくりと立て直す余裕を持つことができた。レコードプレーヤーを買い、好きな画家の絵を買い、生活に必要な椅子や机を自作したりしながら過ごしていた。
生徒たちと一緒にいた日々はゆったりとしていたようで、先生と呼ばれつつ一緒にふざけあったり、絵のリクエストを幾つも受けて休憩の合間を縫って描いたりしているうちに、あっという間に過ぎていった。けれどそのあいだに自分は、一言ではいい表せない大切な何かをみんなから受けとっていたのだと思う。
彼ら彼女らの生きるすがたは、時として地上の天使そのもののように思われることもあった。けれどそれ以上に胸を打たれたのは、誰もがみな自分と同じ人間であるという事実だった。それまでずっと人間であることに違和感を抱き、どこかで"人間ごっこ"をしながら生きてきたような気持ちでいた自分にとって、彼ら彼女らの存在は不思議なほど温かく、かがやかしく感じられた。いま思えば養護学校で過ごした日々は、"人間であることの入口"に再び立たせてもらうような時間でもあったのかもしれない。
卒業する生徒の似顔絵を一人ひとり描いていた時、かつて「この世で最も美しいのは人間かもしれない」と自分が感じてきた記憶たちが幾つも呼び覚まされた。生徒たちの美しい目を一つひとつ紙に鉛筆で写し取っていくたび、彼ら彼女らとの出会いもまたその一縷なのだと感じた。
存在の祭りに列する人々を描くこと。その彼方にあるものは、かつて巨きな絵を描くときに思い続けてきた"永遠"と、違わず地続きのものなのだと思う。
北海道移住が決まる前の2020年秋、大切な仕事がひとつ形になった。それは音楽家のharuka nakamuraさんとシンガーソングライターのLUCAさんのふたりによって生まれたアルバム「世界」のアートワークだった。そこにはかつて自分が大学生の頃に挫折したはずの「人を主たるモチーフとした絵」が、当時まったく想像していなかった形で自然とあらわれていた。
harukaさんと初めてお会いしたのは、2019年5月のカテリーナの森で行われたSING BIRD CONCERT FINALのことだった。まだ東京であくせくしていた2015年、自分の絵が生まれ変わるうえでの最たる出会いの場となった吉祥寺のOUTBOUNDというお店で、harukaさんの音楽は流れていた。以来その存在をひとつの灯火のように思い続けながら絵を描いてきた自分にとって、harukaさんと出会えたことは巨きな絵がもたらしてくれた、もうひとつの到達点でもあった。
個人的に、アルバム最後の「アシリレラ」という曲が好きだった。アイヌの言葉で「新しい風」を意味し、全曲のなかでもひときわはじまりの予感にみちたそれは、「光から風へ」という言葉を胸に刻んでいた当時の自分をそっと後押ししてくれる、水先案内人のような存在だった。
事実「世界」は北海道に来て以来、ほんとうに多くの繋がりをもたらしてくれた。あたかも絵が自分より先に旅をしていて、然るべき出会いの場を用意してくれていたかのようでもあった。
闇から光へ来たこと、そこで風を感じたこと。それはあくまで進歩というより、それぞれがひとつの状態に過ぎないのかもしれないと思う。燦然とかがやく光の中は、時として永遠そのもののようにおそろしくもあったのだから。 それでもいま自らを象る力となるのは、「自らもまた発光体である」というあざやかな事実でもあるように思う。闇も光も風もすべて自分のなかにあるのだと思えるとき、不思議と安らぎを抱けるのは、そのように生きてこそ人間であり、ひとりの修羅に他ならないからなのかもしれない。
人間であることを希求しながら、人間ならざるものを希求すること。その往還のかなたにあるものを、きっと自分はただ見たいだけなのだろう。
からだは溶けて宇宙となる
宇宙は溶けて音のない声となる
声は溶けていちめんの輝きとなる
そして輝きはかぎりない歓喜の胸に抱かれる
⏤⏤パラマハンサ ヨガナンダ
(真木悠介「気流の鳴る音」より C・サンタナ「Caravansarai」ジャケットから)
北海道に来てからの大切な出会いのひとつに、洞爺湖でtoitaという小さな商店を営む知子さん、そしてそのパートナーであり野生の学舎という名前で活動する祥也さんの存在がある。
最初にtoitaを訪れたとき、ともこさんは当時まだ北海道に来て間もなかった自分の身の上話に、ゆっくりと耳を傾けてくださった。そして「きっと気が合うと思う」と自宅に招いて繋げてくださったしょうやさんは、それ以来洞爺を訪れるたびに真夜中まで話しこむ、大切な友人となった。
しょうやさんもかつては絵を描く日々に明け暮れた人で、今は洞爺湖を拠点にプリミティブな造形の時間(土面づくりや岩絵など)を人々と共に分かち合い、その内に火山のような熱い意志を秘めて、根源への旅を続けている。夜遅くまで話し込んだ次の日の朝はよく湖へ一緒に歩いて行き、凪いで透き通った湖に枝で波紋をつくってみたり、石を零して音楽を奏でたり、さらさらと砂粒を流して光のドローイングを描いたりしていた。
しょうやさんと語りあうたび、「根と翼を共にすること」という言葉がいつも心に思い浮かんだ。生活と制作の両立という道のりは、決してひとりではできないのだということ(孤独でないからこその孤独なのだから)を自明の理としつつ、同時に制作のおそろしさ(その彼方は永遠と繋がっているのだから)をも引き受けたうえで、それを実践する道を探し求めていくことになるのだと思う。その道は一人ひとり、違ったものになっていくのだろう。
今年亡くなった社会学者の泰斗・見田宗介が、かつて真木悠介とペンネームをかえて著した「気流の鳴る音」では、そのためのひとつの道を「全世界をふるさととすること」という言葉で表したあとで、次のように書いている。
われわれの根を存在の中の部分的なもの、局限的なものの中におろそうとするかぎり、根をもつことと翼をもつことは必ずどこかで矛盾する。その局限されたもの⏤⏤共同体や市民社会や人類⏤⏤を超えて魂が飛翔することは、「根こぎ」の孤独と不安とにわれわれをさらすだろうから。… しかしもしこの存在それ自体という、最もたしかな実在の大地にわれわれが根をおろすならば、根をもつことと翼をもつことは矛盾しない。翼をもってゆくいたるところにまだ見ぬふるさとはあるのだから。
存在それ自体へと至るために、何よりも自分がよるべとしてきたのが描くことだった。はためく鳥の翼でもあるかのようなあの巨きな絵も、未だ一枚の羽根にすぎないものかもしれない。それならばもっと絵を描けばいい。その果てにいかなる決着が待ちうけているにせよ、その翼が然るべきところへと辿り着くまで、どこまでも限りなく。
北海道に暮らしてから自分の作品を描くことはほとんど出来ずにいたものの、かわりに堰を切ったように始まったのが「みんなで一緒に絵を描く」ことだった。それは長らく自分ひとりで向き合ってきたはずの絵をどこまでも押し広げて、時として台風のように烈しく吹きつけてくる「新しい風」だった。
それまで自分が絵でほぼ使うことのなかった派手な色彩が、そこでは全て赦された。ゴールドやピンクや無数の原色たちが飛び交い、過剰なまでの描写は時に紙を引き裂いて、それらを繋ぎ合せることでまた新たな絵を生みだした。描かれたものは尊重され残されることもあれば、あっという間に塗り重ねられて消えてゆくこともあった。
ふだん絵を描くことがない人でも、鉛筆から筆へ、筆から指へと描画する先端が変わっていくなかである種の"解放"が起こり、水を得た魚のごとく絵の具を走らせる、そのような瞬間に立ち会うこともたびたびあった。
時々みんなで描いた絵を思い返しては、それをひとりで描くことを想像するとき、途方もない感覚に包まれた。一体その先に、どんな絵が生まれてくるのだろうか。少しずつ新たな世界が展けていくのを感じる。
みんなで一緒に描くこと、その一連の試みを自分は「OUR songs」というふうに呼んでいた。描くことの起源それ以前におそらく音楽があるということ、そして絵が生まれる前後には、必ず詩(ポエジー)が存在するということ。描くことをとおして繋がりたいのは、描くことそれ自体を超越した先にあるような、ありとあらゆる諸世界との交歓だった。
思えば「世界を巡る旅」で自分が実現してみたかったことのひとつが、まさしくみんなで一緒に絵を描くことだった。気がつくとそれは北海道ですでにはじまり、新しい風景を幾つも見せてくれている。
洞爺湖のしょうやさんと、いつかどこかで、みんなで集まって巨大なひとつの太陽を描こうという話をしたことがある。この地上にさざめくすべてを太陽のおもかげとして、万象の生きて在るさまを、無数のうた、ひとつの讃歌として、描き奏でるように。
世界は雲のように
その形を変えていき
成し遂げられたものはみな
原始へと還っていく
変容と逍遥は
より広く、そして自由に
竪琴を持つ神よ
あなたの永遠の歌が舞い上がる
悲しみを知り尽くすことはなく
愛を学び尽くすこともなく
死によって私たちを遠ざけるものが
明らかにされることは決してない
ただ、大地を貫く歌だけが
救いと祝福をもたらす
それはキース・ジャレットの「Spirits」というアルバムのライナーノーツに引用された、リルケの詩だった。北海道に来て以来くりかえし聴き続けているこのアルバムは、作り手にとっても「音楽の根源」そのものと交歓したかのようなかけがえない日々の中で生み出されたものであり、自分にとってもこれから歩む先10年ほどを予示するかのような、圧倒的な存在感を放っている。
詩を意訳してみた時に流れ込んで来たものは、あまりにもこれからの一切を含んでいるようで、ふるえずにはいられなかった。そこにはこの先描くべき絵の在りようがあり、いつか世界を旅する日々があり、いつかふたたび絶望する瞬間さえもほのめかされているように感じられた。そのことがどこか畏ろしくもあった。
予兆すること、ありとあらゆる徴候に対して鋭敏でいることは、絵を描くうえでなくてはならない感覚なのだと思う。ところがその一方で予兆に頼ろうとするあまり、宿命的なものに囚われてしまうことも、これまでを振り返ると少なからずあったように思う。特にそれは絵の外で、とりわけ誰かと共に生きようとすることにおいて。
完全な自由と完全な宿命が共にあるという、もっとも矛盾した言い方をするとき、不思議とそれこそが本当であるように思われるのはなぜだろう。この世界を、自分の生を、見縊(みくび)ってはならないといつも思う。予兆の外をも信じてみたい自分を、どこかでは赦していたい。真理は決して物事の中心にあるのではなく、世界の果てに誰にも知られることなく、そっと咲きこぼれているものかもしれないのだから。
この三年半のうち最も予期していなかった出来事の一つが、邑里(ゆうり)さんと一緒に暮らすことだった。
かつて自分が絵描きとして駆け出してから少し経った頃に、邑里さんとはインターネットをとおして出会った。巨きな絵の展示で初めて出会って以来、折にふれてそれぞれの近況を話しあいながらお互いが生きていることを有難く思える、大切な存在だった。彼女もまたその道のりのなかで、写真やヨーガとの出会いをとおして、生きることそれ自体が祝福であること、そして自らもまた光を放つ存在であるという思いへと辿り着いた人だった。
邑里さんが自身の活動をはじめるときに「祝(ゆわい)」という言葉と出会い、それを屋号とすることについて打ち明けてくれたとき、無性に嬉しくて仕方がなかった。まるで違う人生なのに、もうひとりの自分を祝福したくなるような、不思議な気持ちに包まれたことを憶えている。
今年のはじめに思いがけず縁が深まり、一緒に生きることを決めてから、瞬く間に半年以上が過ぎた。邑里さんがそれまで長く住んでいた京都を離れて、夏から北海道でふたり暮らしをはじめてからは、お互いにまったく未踏の境地にいる。けれどもう、人間ごっこをしているという感覚はほとんどない。相変わらずおぼつかないことばかりだけど、たしかに自分は人間として生きている。
今年の秋に友人の写真家であるトナカイさんが家に遊びに来てくれて、ふたりの写真を撮ってくれた。
いまここが彼方なのだと、そう思う。
✳︎
この文章も、そろそろ終わりにしようと思う。
「絵の変容を巡る旅」が、巨きな絵の制作と展示を含む2015年夏から2019年春までの4年間を指すならば、そこから来年の春までの4年間は「生活を見つめる日々」に相当することになる。邑里さんと出会ったことで、この4年間もひとつの結実を迎えるように感じている。そしてそこから先は、全く新たな日々が始まることになるのだろう。
冒頭に書いたとおり、来年から自分はふたたび巨きな絵を巡回展示しようと考えている。できることなら、自分が誕生日を迎える5月に北海道で展示をしてみたい。それを船出として南へと少しずつ下っていき、各地で展示しながら最後に生まれ故郷の九州までたどり着くことができたら、そんな構想をしずかに温めている。
最後に巨きな絵を燃やす時がきたら、その時こそ自分も世界へと旅立つのだろう。絵を燃やすことを思いついたのは決していまに始まったことではなく、最初に展示をしたときからぼんやりと頭の中にあった。絵が火となり灰となって空へと還っていく時、その時こそ「はじまりの灯」は光から風へと生まれ変わるのだと思う。
本来なら2020年春にその機会を用意するつもりでいたものの、結局感染症に伴いその話は消えてしまった。結果的にもう一度巨きな絵と共に旅ができるようになったことが、今となっては必然であるようにも思われる。
巨きな絵が燃えるすがたを想像するとき、それはいつも夜のおわりだった。その生が熄(や)むとき、かつて絵の一部が引き裂かれて、その裂け目から思いがけない風景が現れたように、そこにも何かが生まれるのだろうか。いまはまだ全くわからないけれど、この文章で幾度となく引用してみせた真木悠介の、「気流の鳴る音」の結びにある最後の一文にひとつのおもかげを見て、ここでの旅に終わりを告げたいと思う。
「夜明けの光は世界と世界のあいだの裂け目だ。それは未知なるものへの扉だ。」

五月の祝祭のあと、カテリーナの森を去る前に、幾つものかけがえない音景が過ぎ去った、その傍らにある一本のマグノリアの木の下で、空を充す無数の葉のさざめきに、ぼんやりと耳目を澄ませていた。
その一瞬のうちにか、もしくはそのあとさきに、結葉(むすびば)ということばがふと、胸に去来したことを憶えている。
それは初夏をしめす古い季語であり、生い茂った葉と葉が合い交わり、結ばれたように見えるさまをあらわすのだと、後になって知った。
春と夏をつなぐ、季のあえかな鳴動。
葉のかたち一つひとつ、それはまるで目のおもかげのようにも見える。
陽と地の結目として綾なすみどり、それに感応するこのまなざし。
鹿と目が見合ったとき、とくとくといのちの通り抜ける音を聴いた。
死するものとして生きている、と思った。(幸せであり、死合せだった)
それは一瞬の「目合(まぐわい)」にして、自我というこの奇妙な分断をも断ちきってみせた。
誰もいない孤独な真夜中の山奥で、遠く遥かにまたたく無数の星々を見つめたとき、愛、ということばがふと生じたのはなぜだろう。
それでも、ひとびとは何らかを希求せずにはいられない存在であり、そこには時として目を瞑りたくなるほどの、あるいは目を捧げたくなるほどのまぶしいものが、どうしようもなく充ちあふれる。
そしていまここに立ち尽くす地平は、そのような種々のいろどりを憶えずにはいられないかのように、あたかもかたちづくられているかのようだ、と思う。

果てしない道のりを思います。
果てしなく果てしない道のりを
まぶしくて遠い その中の
小さな小さな小さな
太陽の黒点のような自分を。
帰りたいと思います。
(けれどどこへ?)
おそらく終わらないかもしれません。
けれど歩くことはできます。
歩くことだけが、この道のりの
永さを感じさせ
終わるかもしれないと
感じさせるそれなのです。
目をつむります。
やみのなかにぼうっと
白い点が灯ります。
それはまぶしくなく 真に
あかるいもののようです。
その白い点をじっと見つめていると
やみのすべてが
白い点であることに気づきます。
本当かどうかは誰にもわかりません。
でもそれをイメージできるのです。
そして不思議とこう思います。
終わるかどうかではないのだと。
此方と彼方をむすぶのだと。
夜明け前にうまれた、その詩をいちばんはじめに読み、当然でしょ?と返してくれたひとのことを、いまは毎日のように思いだす。
自らのよわさのために遠ざけてしまった、そのひとのほかならぬ気丈さにふれるたび、決してあかるいだけではいられなかった自分のもろさを、恨みたくなる時もあった。
けれどいまはそのひとを思うたび、なぜか奮い立たされるような気持ちになる。
正気と狂気を共にすること、そう自分がいったとき、狂気を全てなくした先を、とそのひとはいった。翻ってみれば、それはいちめんの狂気そのものかもしれないと思った。
どこまでも別々の道を歩くはずなのに、その先にある光は決して異なるものであるとは感じなかったこと。
何よりも不思議といつまでも話せる誰かがいることが、自分にはうれしかった。
交わろうとせずにはいられないものと同じように、へだたらずにはいられないもの、そのように思うまでもなく互いに消えていくものが無数に存在すること。そのような世界で、たとえひとときでも息を合わせることのできた記憶を、切に思う。
先のことはわからない。
それでも「憶えている」と信じられることは確かにあって、それが生きていくうえでの追い風となっていくのだろう。

根と翼を共にすることについて、この頃は息がつまるくらいにずっと考えつづけてきた。それは人間のもつふたつの根源的な欲求であると同時に、必然的に矛盾する宿命をもつようなものでもあった。
先人たちのおかげで、この宿命をこえてゆくための道を幾つかは見出すことができる。
旅と暮しの往還のはてに、このどこまでも人間的な執着と向き合えるかもしれない道を、いまは模索しつづけている。
このことは、それこそ全生涯をかけてゆくことになるだろう。
「行くことによって、どこへ行くべきか私は学ぶ」
私淑してやまない詩人のひいたこの言葉が、いまもお守りのようにして胸の奥にある。
次は、どこへ行こうか。

あれからもう一年がすぎた。
ひと巡りした五月、ふたたび結葉の下で、羽根のようなかたちをした、小さな木片をみつける。
そこにふきつける風を、ただ見つめている。
これ以上は、何もことばにすることができない。
今はまだ。
(2020年5月22日 新潟の実家にて)
SING BIRD CONCERT FINALの余韻に浸りながらも浜松に戻ってくると、ずっと手を出せずにいた引越しの準備にようやく取りかかることになった。
本来であれば2月の個展「存在の祭りの中へ」を終えた時点で、絵描きとしての活動も区切りをつけて、春からは地元の新潟に引越して世界を旅する準備をはじめるつもりでいた。けれど実際にはこの間もさまざまなお声がけをいただき、浜松にいる時間を5月の終わりまで延ばして、絵描きとしての活動期間をほんの少し延長することになった。
その結果、4月から5月にかけて怒涛の勢いで展示を行うこととなった。
Panchavati 作品展
洞窟とスピカ星
旅立ちのみどりそのなかでも一番最後の展示を飾ることになったのが、五月のおわりから六月半ばにかけて大阪で催した「宙に兆す」だった。gallery yolchaのオーナー・イルボンさんのお声がけで実現したこの個展は、巨きな絵を広げる最後の機会となった。

イルボンさんとのご縁は、2017年の夏にまで遡ることになる。当時まだ絵描きとして関西に縁などほぼ全くなかった頃、インターネットをとおして繋がった何人かの作家さんとお会いするために、ひとりふらりと来阪したことがあった。
そのときずっとお会いしたかった方のひとり、大阪在住で浜松出身の画家・久野安依子さんから、熊谷さんにぜひ、とご案内いただいたギャラリーが、イルボンさんの運営するgallery yochaだった。
有難いことに、その年の終わりにはyolchaで個展をさせていただくことになったものの、それ以降は関西とのご縁も少なく、すっかりご無沙汰してしまっていた。そして個展からほぼ一年後、巨きな絵の制作中にイルボンさんからふたたびお声がけをいただくことになり、そのとき今後世界を旅することについてお伝えすると、「ならその道標になるような展示をしてから出発しないかい?」と、巨きな絵の巡回展をご提案いただくことになったのだった。
2017年12月にgallery yolchaで行なった個展「かたちのみなもと」その後巨きな絵の展示を終え、春に大分のカテリーナの森へ向かうときに、久しぶりにyolchaに立ち寄れたらと思い大阪を訪れた。そこでイルボンさんに大分へ行く目的についてお話すると、元々イルボンさんはカテリーナの森の未來さんや舞香さんと繋がりがあるばかりでなく、かつて2015年におふたりの演奏会も兼ねた古楽器の展示をyolchaで開催したことがあったという、衝撃の事実が発覚した。
その記念(?)にyolchaで取り扱っていたカテリーナの森の鳥笛(ラスト一個)を購入すると、「在庫の追加発注したいんで、会ったらお伝えしといて〜」と伝言を頼まれることになり、イルボンさんはうっかり、自分とカテリーナの森の仲介役となってしまったのだった。
そんな流れもあって、五月のSINGBIRD CONCERT FINALにも設営のお手伝いとしてご同行いただけることになり、大阪の絵本作家・もうりひとみさんも加わった三人での関西弁飛び交う道中は、大分にいるのか大阪にいるのかよくわからない感覚を味わいながら、楽しい旅の記憶となった。
イルボンさんと巨きな絵巨きな絵はyolchaだとどうしても収まりきらないことから、隣にあるFLAT space(現chago。yolcha同様にイルボンさんが運営)で展示することがきまった。しかしFLAT spaceの最も広い畳の空間でもやはり面積が足りず、悩んだ末にイルボンさんの提案で、絵の一部を箱の上蓋のようなかたちで折り込んで天井に沿わせ、全体をタープ状に張って天井画にすることになった。
ふたたびもうりひとみさんも加わっての三人での設営は、カテリーナの森の時と同じく午後から夜になってもかかりきりだったけれど、最終的にこれが見事に空間にマッチし、ここに絵のプラネタリウムとでも呼ぶべき空間が現出することになった。


それは展示の一月ほど前、個展の題に「兆す」という言葉を入れたいと自分が話した時、それに応答するように「宙に」という言葉を提案してくれたイルボンさんによる、もはや呪術と言いたくなるほどのあざやかな詩的帰結だった。
さらにイルボンさんのはからいによって、会期中にはなんとカテリーナの森の未來さん・舞香さんをお招きしての演奏会「宙に謳う」も開催することとなった。巨きな絵の下でおこなわれた演奏は、SING BIRD CONCERT FINALでも演奏されていた浜松出身の管楽器奏者・金子鉄心さんの飛び入り参加もあり、再びあの豊かな音楽の時間を思い出させるとともに、これから先待ち受けている旅の佳き在りようを自分に予見させてくれるかのような、忘れられない時間となったのだった。

「宙に兆す」の最終日、もうまもなく展示が終わろうとしているところに、ひとりの大切な友人がそっと足を運んでくれた。
絵描きとして自分が展示をはじめた頃、お互いの絵をとおして知り会った彼女は、巨きな絵の源泉ともなった「虹の上をとぶ船」や見田宗介の本を知るきっかけを与えてくれた、何かこの世のつながりということを越えて通じるものを感じさせてくれる、とても不思議なひとだった。
かつて二人で一度描いたことのある絵は、黒板にチョークでほんの数十分にも満たない時間のなか描いた落書きのようなものだったけれど、そこにはけものが新たなるけものへと変容するかのような瞬間がきざまれていた。

それは生から生へ、存在から存在へと「永遠に現在し続ける」たましいの様相のようなものかもしれないと、いまになって思う。
絵描きとして、ひたすら歩き続けた三年と三ヶ月。絵は、このおぼつかない生に幾つもの灯を点してくれた。
いまの自分にとって、それは重みある光というより、むしろかろやかな風のように感じられ、世界への旅情を駆り立ててくれている。
その風と共に歩み続けることが、自分の歩むべき道に他ならないのだということを信じてやまない。
「この星で描く」を終えて、絵描きとして歩んできた三年間の活動はひとまずの区切りをむかえることになった。すっかり散らかったアトリエと部屋を片付けつつ、今の自分が描きたいものがあるとしたら何だろうと、懲りずにまた絵のことをぼんやりと考えはじめていた。
絵のための参考資料として、これまでに集めてきた画像をながめていくうちに、何となく楽器の造形が気になりはじめた。とくに古楽器の形に惹かれるようになり、インターネットで色々調べていると、日本で古楽器づくりをおこなっているカテリーナ古楽器研究所という場所に行き当たった。


大分・山香(やまが)という自然豊かな郷土の、田畑に囲まれたところにひっそりと佇んでいる「カテリーナの森」。
そこは古楽器の復元研究制作を行っていた故・松本公博さんが、制作のための理想的な環境をもとめて1991年に家族と共に移り住み開拓した土地であり、築150年の古民家を拠点に自給自足の暮しをしながら、工房での古楽器づくりをはじめとする様々な音楽活動を親子でおこなっている場所だった。
古楽器の造形のすばらしさもさることながら、何よりも音楽と共にあるその家族の暮しのすがたに、自分はすっかり魅了されてしまった。そしてほとんど衝動的に、今すぐにでもこの場所へ行きたい、と思ってしまったのだった。
SING BIRD CONCERTカテリーナの森では、毎年5月の母の日になると「SING BIRD CONCERT」という音楽祭のような催しが行われた。新緑の光と風につつまれるこの時期は、5月生まれである自分にとってもひときわ特別な思いがあり、そのタイミングで大分へ向かうことが頭をよぎった。しかしその時点では時間的にも経済的にも、5月に静岡から向かう見通しを立てることは非常に難しい状況だった。
はやる気持ちを抑えられなかった自分は、青春18切符が使える3月中に行くことを思い立ち、事前に連絡をして訪問の旨をお伝えすると、静岡から電車に延々と揺られること約一日半、気がつけばすでに山香の駅へと降り立っていた。

お昼前にカテリーナの森の古民家に着くと、古楽器づくりを営んでいる長男の未來さん、フィドル奏者であり美しい歌い手でもある妹の舞香さん、そして母の照さんが出迎えてくださった。ひととおり工房を見学させていただいたあと、昼食をいただくことになり、彩り豊かな食事と共に、様々なお話をした(森の採りたての原木シイタケがとびきり美味しかったことは、今でもよく憶えている)。
そしてその時に、SING BIRD CONCERTは次回5月で最終回になるということ、その中で父・公博さんへの追悼の意をこめた夜の宴を企画していることについてお聞きした。公博さんが亡くなられたのは、自分が訪問するわずか半年ほど前の秋のことだった。69歳という若さで、突然その生涯を終えられたという。
一連のお話をお聞きしながら、この場所へ半ば引き寄せられるように足を運ぶことになった、自分の境遇の不思議さを思った。そして気がつけば自然と、自分の父について話しはじめていた。

カテリーナの森との個人的な接点として、自分が生れ育った場所も大分にあり、そこは山香から電車一本で行ける距離であるということは、少なからず念頭にあった。そして大分という土地は、今は亡き自分の父が生まれ、その生涯を終えた場所でもあった。
父の唐突な死は、自分の人生において紛れもなくひとつの決定的な出来事だった。けれど長い年月のなかで、それは決して影を落とすだけのものではなく、父の不在をとおして、たくさんのことに気がつくこともできた。
久しぶりに大分を訪れたとき、かつて過ごした家やその近くを流れていた大きな川を、心ゆくまでただ歩いてみたくなった。カテリーナの森へ向かう当日の早朝、生まれ故郷の駅に着くと、そこから生まれた家のある場所めがけてひたすら歩いていった。
帰り道の途中、一枚の不思議な写真を撮った。生まれた家からそう遠くない川の近くにある空き地に、いちめんに菜の花が広がる風景。現像した写真をみた時、たましい、という言葉を思わずにはいられなかった。
記憶と忘却の間を彷徨うように、あのとき自分がたぐり寄せようとしたものは、きっと「不在の手ざわり」のようなものだったのかもしれない。

父の話を、カテリーナの家族たちはゆっくりと真摯に聞いてくださった。そしてその後、今度の5月におこなうSING BIRD CONCERT FINALのフライヤーに、あなたの絵を使わせていただけませんか、というご依頼を伝えてくださった。
公博さんへの祈りをこめた初日の夜の宴と、二日目の森のよろこびに包まれた祝祭。双方を表すイメージを探す作業は、非常に難航していたという。そんなときに偶然連絡をした自分の絵が、カテリーナの家族たちが求めていたイメージと不思議に合致したということだった。
こうして突然の出会いではありながら、自分にとっても大事に思っていた二つの作品「ミナハラム」と「土の記憶」を、SING BIRD CONCERT FINALのフライヤーに使わせていただくことになったのだった。
SING BIRD CONCERT FINAL フライヤーさらに有難いことに、絵のお礼というかたちでSING BIRD CONCERT FINALへとご招待をいただくことになった。
その時にふと、巨きな絵のことが頭に浮かんだ。浜松で個展をしたとき、「この絵をもし森のなかで見ることができたら…」というお話を、じつは何人もの方々からいただいていたのだった。
巨きな絵のことを話し、カテリーナの森で展示することについて無理を承知でお願いしたところ、是非!という回答をいただいた。浜松での巨きな絵の展示が終わってから、まだ半月ほどしか経っていない三月半ばの出来事だった。

来たるべき祝祭にそなえて、浜松に戻るとすぐに巨きな絵の修復・運搬のための準備をはじめた。絵を広げられるだけの作業スペースを確保することがまず問題になったが、ギャラリーあのオーナー・天野寛志さんに事情をお伝えすると、作業のための空間をお貸しいただくことになった。天野さんのご協力がなければ、巨きな絵を修復し、大分へと運ぶことは難しかったと思う。
破かれた魚座の部分をはじめ、裂け目ができていた部分や剥がれた部分の補強等を済ませると、まだ未着手だった部分の加筆を仕上げていった。そしてカテリーナでの屋外展示を想定して、各部を結んでいた糸を麻紐から凧糸に変更し、友人の協力のもと、あらかじめ必要な場所を糸で結んでおく作業を発送予定の日までにどうにか間に合わせることができた。
こうして巨きな絵巻は、宅配便で浜松から大分へと運び込まれることとなった。あとはもう、当日の天候が雨にならないことを祈るばかりだった。

幸いなことに、二日間にわたり山香の空は気候にめぐまれ、終始穏やかな光がカテリーナの森に注ぎ込むこととなった。
2019年5月、SING BIRD CONCERT FINAL当日。自分は初日のお昼過ぎに設営中のカテリーナの森へと到着し、まずはじめに巨きな絵を設営できそうな場所を探していた。
ライブステージとなる場所からやや離れた小高いところに、「古墳スペース」と呼ばれる木々に囲まれる開けた空間があった。祝祭の2日目には福岡のアトリエ兼ギャラリー・うつしきが、所縁ある作家たちと共に「森の民」をテーマにした展示を行うことになっていた。
事前にその出展情報を見たときには、心底おどろいた。絵描きの笑達さん、アクセサリー作家の川井有紗さん、京都で衣服をつくられているi a iさん、長野で装身具をつくられている野原夫婦などをはじめ、そこに集う作家たちは、以前より一方的に自分が尊敬していた方たちが、何人も名前を連ねていたのだった。
古墳スペースのいちばん奥に、「ここしかない」という感じで、ちょうど絵の幅が収まる間隔で二本の樹が並んでいる場所を見つけることができた。その手前の地面に巨きな絵を広げ、早速設営に取り掛かった。
幅5m以上ある巨きな絵を樹にかけるためには、それ以上の長さを持った強度のある棒が必要だった。浜松の個展のときは適したものがなかなか見つからず、ホームセンターの4mの物干し竿を使うことでなんとか事なきを得ていたが、有難いことにカテリーナの森には、楽器づくりのための長くて丈夫な6m前後の竹が沢山あった。そのうちから手頃なものを選ぶと、あとはひたすら紐を結びあわせていくだけだった。

そして、このとき。自分が絵描きとして歩み始めてからその瞬間に至るまで、ずっとよるべのように思い続けてきた、未草のおふたりとの出会いがあった。
出展されるということは、会場を訪れる前から自分もフライヤーをとおして頭の片隅にはあった。けれど長野に拠点を置く彼らが、遠く大分まで直接足を運んでくることは予想していなかった。
自分が紐を結ぶ作業をはじめてから少し経ったころに、未草の寛樹さんと庸子さん、そしておふたりの間に生まれたばかりの蒼ちゃんたちが会場に到着した。ほんの少しだけご挨拶をしたあと、おふたりは巨きな絵から程遠くない場所で、設営の準備をはじめた。自分も黙々とひたすら巨きな絵の仕事をすすめながら、縁というものの不思議さに、このうえなく胸を打たれていた。
設営の途中からは、大阪からお手伝いとして同行してくれたふたりの友人が駆けつけて、三人で作業を進めた。それにもかかわらず設営は想像以上に長引き、すべての紐を結び終えた頃になると、辺りはすっかり暗くなってしまった。結局初日時点では絵の立ち上げを断念せざるを得なくなり、わずかな作業を残して、その日は絵のある空間を後にした。
翌日、SING BIRD CONCERT FINAL最終日の朝。シュロ縄で樹に括った竹を少しずつ持ち上げていくと、巨きな絵はゆっくりと目を覚ますようにして、森のなかで立ち上がっていった。


絵が、よろこんでいる…
降り注ぐ陽光をまとい、5月の風をはらんだそのすがたは、作り手である自分でもそう思わずにはいられないほど、生命感に満ち溢れていた。
この場所へ来るために、きっとこの巨きな絵は描かれたのかもしれないね。後日カテリーナの森でのお話を聞いてくれた大切な友人が、そんな風に話してくれたことを憶えている。

祝祭最終日のフィナーレには、カテリーナの家族の兄妹である未來さん・舞香さんによる音楽デュオ「baobab」と、音楽家のharuka nakamuraさん、パーカッションの田中良太さんによる演奏が、写真家の川内倫子さんによって時折スクリーンに映し出される映像と交錯しながら、カテリーナの森全体へと鳴り響いていった。
そのなかでも最初に演奏された宮沢賢治の「星めぐりの歌」は、蛙の鳴く声や子どもたちの笑い声と共に、飛び入り参加したささたくやさんによる、地鳴りのようなモンゴルの歌唱法・ホーミーの唄声も相まって、すべてがカテリーナの森の地霊そのもののような音楽として感じられ、思わず目頭が熱くなった。
音楽は絵を描くことと同様、いやおそらくもっと遥か以前に生まれた原初の表現であるということ。人が死ぬ時、最期まで残り続ける器官は聴覚であるということ。そのような事実を知ったときの驚きよりも、もっとずっと直接的に、身体の奥底までつらぬくような、光そのもののような、音。
自分にとって奏でることや歌うことは、これまであまり馴染みのない表現だったけど、この時ばかりは歌えそうなばかりか、自分も何かのかたちで音楽をいつかできたら、そんなふうに思わずにはいられなかった。
祭りのあとの夜、巨きな絵の前で未草の寛樹さん、庸子さん、蒼ちゃんと横に並びながら、ゆっくりお話する時間を過ごすことができた。絵を描き続けてから三年。それは自分が遥か遠くだと思っていたところへと確かにたどり着くことのできた、まさに奇蹟のような時間だった。

個展「存在の祭りのなかへ」のクロージングイベントとして3月2日に行った、即興制作の催し「この星で描く」。
自分にとってそれまでの総括となる作品の展示だからこそ、今までにやったことのないような催しをしてみたい。そう思った時にまず頭をよぎったのは、巨きな絵を背景にした空間でライブドローイングをすることだった。
巨きな絵にかけた長い時間と、一日その限りに描かれてゆく絵の一瞬一瞬とが、空間のなかで交わるとき、何か未踏の風景が立ち上がるような予感があった。そこからさらに構想が膨らんでいき、ひとりではなく様々な人たちの力を借りて、空間全体が一枚の絵となるような場をつくることを思い立った。
当日は巨きな絵を祭りの軸に見立てて、全体を劇のようなイメージで四部構成に分け、絵描きや詩人、ピアニストによる様々な表現が重なっていくことによって、空間全体がまさに祝祭のような場となった。
共演者もお客さんも一緒になって、同じ空間で一枚の絵を描くこと。それは自分にとって、まさに夢のような企画の実現となった。


その詳しい内容はWebサイトにまとめた特設ページに託すことにして、ここでは最も印象に残っている出来事のひとつ、「たけしくん」のことを中心に書いてみようと思う。
事の発端は、第二部「めざめる」の時に起こった。



上の写真におおきく映っている、赤い服の男の子が「たけしくん」という。鴨江アートセンターの近くにある公共文化施設「たけし文化センター」の顔となる存在でもあり、重度の障害を持っている。いつもお世話をしているササキユーイチさんと共に、この会場に遊びに来てくれていた。
第二部「ふるえる」では、ピアニストのなつみさんが即興でピアノ演奏をしながら、詩人の池田彩乃さんが宮沢賢治の短い物語「マグノリアの木」を朗読していた。そんな中たけしくんは、ササキさんの静止をものともせず、時折おおきな声を発しながら会場を自由に動き回っていた。
そして一瞬の隙のうちに、「はじまりの灯」の一部である魚座のもともと破れかかっていた部分をつかむと、ビリビリ!という大きな音と共に勢いよく引きちぎってしまった。
誰もが予想だにしなかった出来事であり、会場には一瞬ピリッとした空気が走った。けれどその時の自分は内心、物凄く嬉しかった。「よくぞやってくれた…!」とさえ思った。そして破かれたうお座の破片を手にとると、みんながコラージュをしてくれた絵に加えるように、それを貼りつけた。
こんな風に感じ、とっさに動いたことが、自分でも不思議だった。
巨きな絵の制作で台無しになった月の部分
巨きな絵の制作が終盤を迎える頃、二十時間以上かけて描いた部分が台無しになる、という致命的な出来事が起こった。<四つの神話的場面>の巨大な月のモチーフを仕上げた直後、誤って机の上に糊でびったりと貼りついてしまい、どうしても剥がれなくなってしまったのだった。
月のモチーフは細かなパーツをひたすら貼り、その隙間に精緻な白い模様を描くことでつくりあげた部分であり、多くの時間と集中力を要したため、剥がれなくなった時はどうしようもないほど落胆した。けれどそれまでの制作を振り返って見た時、途中からほとんど苦行のような気持ちでしかいられなかったことに気づき、ハッとした。巨きな絵の途方もない作業のなかで、いつのまにか絵を楽しむ余地すらなくなっていたのだった。
あらためて作り直すとき、細かなパーツを月に貼るのではなく、逆にその形に沿って月の内部を切り抜くようにしてみた。すると裏から光に当たると透けるようになり、かがやくような効果が生まれることに気がついた。
生まれ変わったすがたを想像しながら切り抜いていく時間は楽しく、実際に仕上がった月は最初よりも納得のいく仕上がりとなった。制作において一つの転換点となったこの月のモチーフは、絵全体の中で最も印象深い部分の一つとなっている。

つくることは破壊と創造の繰り返しであり、そのどちらもが不可欠であること。絵の時間のなかにおいては、こちらの常識などまるで通用しない、人間の理解を超えた出来事が起こりうるのだということ。
それは巨きな絵との果てしない対話のなかで幾度となく実感してきたことであり、だからこそ催しの中にあっても、どんなことが起こってもそれを受け入れてみたい、楽しんでみたいという欲求があったのかもしれない。
第二部が終わる前に、たけしくんは会場を後にした。そしてカーテンが締め切られ、夜の雰囲気をまとう第三部へと移り、自分がライブドローイングを本格的にはじめたとき、たけしくんが巨きな絵につくった裂け目は、思いがけない効果を生み出すこととなった。
催しを終えたあとで参加者から聞いたところによると、裂け目越しに見たライブドローイングの光景がとてもうつくしかったというのだ。


この時の自分はライブドローイングに夢中で浸っていたため、そんなことは知る由もなかったが、当日撮影をお願いしていた倉田爽さんの写真が、その光景をはっきりと捉えてくれていた。
たけしくんが空間にのこした痕跡と共にはじまった第三部は、zmiさんの唄と演奏と共に、かけがえのない時間となった。


祝祭の当日、その場面を見てくださっていたデザイナーのタテイシヒロシさんが、後日Instagramで次のような言葉を投稿してくださった。
カーテンが閉められ、照明の光のなかで第三部 ライブドローイングと演奏「めざめる」。
みんなで作った絵に熊君が筆を入れていく姿が、古代の壁画を作るような神々しい姿で、ピアノ演奏と一緒に過去の地球へと連れていかれたような不思議な世界でグサっと刺さりました。
言わば「ただの絵描きが絵を描く」という行為でしかないのに、その筆に「人以上の何かが灯っている」と感じるのは何故でしょうか。「遠い未来の古い昔話」という言葉が自分の頭の中でグルグルしました。
「遠い未来の古い昔話」。この言葉はたけしくんが絵の裂け目に生じさせた光景と共に、自分の奥深くに何か忘れがたい原像のようなものを、深く刻み込むこととなった。

第三部の最後に立ち上がった絵は、その日の来場者たちがコラージュしてくれた様々な絵の上に自分が描写を重ねることで、人のような顔をした獣のすがたがレリーフのように浮かび上がった。決して分かりやすい絵にはならなかったけれど、その「存在の質感」のようなものが、自分の中にはいまも生々しく残っている。
後になってその絵を思い出したとき、それがなぜか自分の中で「修羅」のイメージと重なり、宮沢賢治の有名な詩のひとつ「春と修羅」の一片を連想させた。
心象のはひいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の湿地
いちめんのいちめんの諂曲模様
(正午の管楽よりもしげく
琥珀のかけらがそそぐとき)
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
春と修羅。ふたたび生が溢れだす季節の、残酷なまでに美しい光のなかをふるえながら、大地をふみしめて歩んでいく、矛盾に充ちたその存在。
この先世界中を旅しようと考えている自分にとって、それは「この星で描く」という祝祭をとおして喚起させられた幾つもの原像と共に、旅の道標として先立つ存在となってくれる、象徴的なイメージのひとつとなった。

「この星で描く」の最後には、それまでにインターネットでの呼びかけをとおして集まった、たくさんの人々の「手のかたち」を、その日会場に足を運んでくれた方たちと共に、空間の中心にある円の中にコラージュした。これはアルゼンチンにある洞窟壁画として有名な「クエバ・デ・ラス・マノス(手の洞窟)」に対する、自分なりのオマージュでもあった。
いつか旅の果てに至ることを夢見てやまないその場所のことを思いつつ、「この星で描く」は幕を閉じたのだった。

2019年2月20日から28日にかけて、鴨江アートセンターのアーティスト・イン・レジデンスの成果発表として開催した、個展「存在の祭りのなかへ」。
高さ約3.6m、幅約5.4mに達した巨きな絵は、最上階の3階を占める広い部屋の中央で、どこからともなく入り込む風に静かに揺れながら、大きな窓から射しこむ光によって微かに照らされていた。
展示初日、巨きな絵の設置がなんとか終わり作業を手伝ってくれたスタッフもいなくなった部屋で、満身創痍のまま絵の前に座りこんだ自分は、「たったこれだけしか出来なかったな…」と独り何度も呟いていた。
この時点では、じつは予定していたすべての描写を終えることができていなかった。それどころか、コラージュしたはずのモチーフの幾つかは絵を立ち上げた際に画面から剥がれかけ、ところどころに小さな亀裂を生じさせていた。その全体はまるで、無数に傷のあるぼろぼろの船の帆のように見えなくもなかった。
どこまでいけば完成なのかも分からなかったけど、少なくともつくり手である自分にとっては、まるで至らなかった、という思いがとても強かった。
疲労も相まってか、展示が始まってからの数日間はまともに自分の作品を振り返ることすら出来ずにいた。

それでも、展示期間中に多くの方々が展示に足を運んでくれて、巨きな絵についての声や反応をいただくことで、どこかへと辿りつくことはできたのかもしれない、と少しずつ思えるようになっていった。
全力疾走したくなった、といった東京の喫茶店で働く友人。
買おうかと思ってたのにあれじゃ大きすぎるよ、と笑った養蜂屋さん。
部屋の隅にあったピアノで、即興で演奏してくれたミュージシャン。
嫉妬しますと伝えてくれた、街なかのパン屋さん。
何も言わずとも何度も観にきてくれた、絵本屋さんの息子の中学生。
夜、真っ暗にした部屋で一緒に絵を観ながら「大切な島の夜空を思い出します」と話してくれた絵描き。
絵の前で人生の一旦を打ち明けてくれた、大学生の頃お世話になっていた図書室の事務員さん。
かけがえのない人を喪って間もないなか訪れてくれて、とてもよかったです、と伝えてくれた大学の先輩。
その一つひとつにふれるたび、この巨きな絵にとっての主題でもある「存在の祝祭」という言葉が、胸の奥底で静かにさざめいてゆくような感じがした。

会期中、個人的にもう一つ嬉しかった出来事は、自分にとって初めてとなるトークイベントを開催したことだった。
「絵のいままで」と称しておこなった対談の聞き手は、愛知・渥美半島で「明星ライブラリー」という場を主宰する、荒木正美さんにお願いをした。
正美さんは、まだ自分が絵描きとして駆け出したばかりの頃に出会った、恩人のひとりだった。
自分が担当した一枚のポスターの絵をきっかけに声をかけてくださり、それ以来お互いの好きな本や音楽について紹介しあったり、まだ作家としておぼつかなかった自分の言葉を一つひとつ丁寧に受けとめ、はげまし続けてくださった。
ある日の明星ライブラリーにてトークイベント当日、もともと人前で話すのが不得意な自分はかなり緊張していたけど、正美さんのいつもと変わらない語りかけもあって、だんだんと落ち着いて話すことができるようになっていった。かつて明星ライブラリーで過ごした時のような穏やかな雰囲気が、なんとなく会場にも漂っているように感じられたときは、ただただうれしかった。
9日間にわたる鴨江アートセンターでの展示期間は、あっという間に終わりをむかえた。それは制作当初に思い描いていた、絵描きとしてのひとつの終着をむかえるはずの瞬間でもあった。
しかし実際には、巨きな絵を制作している最中で構想し、密かに準備を続けてきたもうひとつの「祝祭」が、このあとすぐに待ちうけていたのだった。
制作の序盤から空白のままだった中心部分巨きな絵のなかで最後の最後まで決めかねていたこと、それは絵の中心に来ることになっていた円形の部分に一体何を描くのか、ということだった。
<四つの神話的場面>において四季の木々たちが根ざす大地ともなるこの部分には、巨きな絵のなかでも最も「象徴的な何か」を刻むべきではないかと考えていた。しかしそれが何なのかは、いつまでたっても皆目検討がつかなかった。
制作が終盤にさしかかる頃になって、奇妙なことを思いついた。それは「もしも制作で根詰まりすぎて出血するようなことがあったら、その血を使ってサインを描こう」というものだった。血を絵に使うなどあまりにも生々しいし、なぜよりにもよって絵の中心に自分のサインをと思いつつ、妙にしっくりくるところもあるのが不思議だった。
そして展示直前のある日。はたして本当に血は流れることとなった。
記憶がただしければ、それは展示の五日前の朝のことで、もう描き終わらない!と自宅で独り途方に暮れていた時に、自然と鼻血が出たのだった。その頃にはもはやサインのことなどすっかり忘れていたけれど、自分の血を見た瞬間に思い出し、偶然手元にあったネパール手漉紙に「今しかない…」と必死に(しかし嬉々として)自分のサインをしるしたのだった。
自分にとって、ひとつの通過儀礼のようなものとして捉えていた巨きな絵の制作は、この瞬間に決定的な場面をむかえたように思う。
巨きな絵の設営風景そして巨きな絵の設営をむかえた、展示初日の2月20日。
各場面に分かれた部分を、鴨江アートセンターの最上階の3階にある館内でもっとも大きな部屋にはこびこむと、館内のスタッフたちと一緒に、一枚一枚を麻紐で結び、部屋の中心に絵が来るように天井に吊るし上げた。
立ち上がった絵の中央には、自分の手のかたちを映しとった紙のうえに、あらかじめ血のサインが描かれた紙の端切れを貼った。水と糊と共に手と血がひとつになると、血がそこからゆっくりと滲み、絵の中へと浸透していった。
これが巨きな絵にとっての画竜点睛、すなわち最後の仕上げとなった。


絵の中心部分に、なぜ描き手の手と血をわざわざしるすことになったのか。時としてこの世でもっともみにくいのではとさえ感じてしまうような自我の生々しさを、それまでのすべての包括として描きあげようとした巨きな絵の中心にきざむのは、つくること、描くことへの冒涜そのものではないのか。
けれどこの絵には、まずしさもゆたかさも、みにくさもうつくしさも、死も生も、救いもほろぼしも、自分が生きていて感じてきた一切すべてを集約したいと思い続けていたのも、また事実だった。ある人からすれば、この部分さえなければもっとましな絵だったのかもしれないのに、と思われるかもしれない。それでも自我の極点である<中心の手>がなければ、巨きな絵がほんとうに結実することは決してなかったのだと思う。
巨きな絵の題名は、「はじまりの灯」とした。
それは絵描きとして活動をつづけていくなかで出会い、親しくなったひとりの聡明な友人が、ある日展示を観てくれたあとで小さなランプの写真と共に、「君の絵は漆黒を照らす灯火のようだ」とただ一言、メールで伝えてくれたことが発端となっている。
「描く」という軌跡によってやがて至るひとつの点は、たしかに光だった。
人が光を点すこと。それは根源的に、灯火のようなものなのだと思う。
生きて、存在して、発光すること。それがたとえ走馬灯のようなものであったとしても、未来はどうなるか本当は誰にもわからないのだから、その瞬間においてはせめてはじまり、と呼んでみたい。
心身ともに捧げた巨きな絵が、これからの人生にとっては未だはじまりにすぎないものだったと、いずれ振り返られるものとなるであろうことを予見して、「はじまりの灯」という名はあたえられることとなった。
✴︎
次章からは、巨きな絵の実際の個展と、そのクロージングイベントとして行った催しのこと、そしてその後に訪れた、今となっては奇蹟のように思える出来事について書いていきたいと思う。
「生命の樹」の下で果実をもぎとるふたりの子ども<四つの神話的場面>の中のあらゆるモチーフが、茶色いちぎり絵によって表わされていることは前回の文章ですでに見てきた。ところが例外的に、茶色いちぎり絵のなかに描かれていない特別なモチーフが四つ存在する。それは絵の中で「つがいの関係」をなすモチーフたちであり、四つの場面それぞれに一組ずつ登場している。
「獣」の場面では白い鹿を黒い鹿が追いかけるすがたが、「鳥」の場面では赤い鳥と青い鳥が共に重なり飛んでいくすがたが、「蛇」の場面では双頭の蛇が外と内へと渦巻くとぐろをなすすがたが、そして「人」の場面では、ふたりの子どもが果実をもぎとるすがたが、それぞれにつがいの関係を表している。
四組のモチーフたちはすべて、一方が赤い目を、他方が青い目をしていて、あたかも双子の魂が四つの場面ごとに転生を繰り返すかのごとく旅をしている。彼らは<三十二枚の図像>によって示された「物語の動線」からも解放された自由な存在として、絵の中をただ遊動している。
「向うの祝祭」の月、その向こう側であそぶ双頭の蛇巨きな絵とひたすら向き合っているあいだ、そこから立ち上がろうとする物語の在りようにひたすら思いを巡らせながらも、その内実ではどこかで「物語の外」に何らかの存在を求めようとする自分がいた。
四つの神話的場面の外側に描かれたもう一組の、かつ最も巨大なつがいのモチーフである<ふたごの根>は、絵全体の最両端に位置し、<四つの神話的場面>と<三十二枚の図像>によって表された物語を外側から温かく見守る存在として、一対の柱となるように描かれている。
樹木のぐねぐねとした造形に着想を得て生まれた<ふたごの根>は、他のつがいのモチーフたちと同様にそれぞれ赤い目と青い目をそなえており、言うなれば彼らの「魂の宿主」として、そして物語の「語り手」として絵の両側に鎮座している。

「主根と側根」Ⅰ・Ⅱ / 2018つがいのモチーフと<ふたごの根>の存在によって、巨きな絵全体をなす諸原理のなかでもとりわけ「双子性」ということは、物語の内外を行き来しうる特有のちからとして表現されている。それにはいままで絶えず自分にとっての大切な参照点のように思い出していた、ひとつの記憶が強く関わっている。
まだ幼かった頃、自分には四六時中共に過ごす存在として双子の兄がいた。小学生の頃の数年間、毎晩寝る前に架空のお話をお互いにひそひそと語りあう時間は、つくることのひとつの原点とでも呼ぶべきものだった。
一度ふたりが寝たふりをしたあとでどちらかが「わーい」と言うと、もう一人が「わーい」と言って、物語ははじまる。当時はまっていたゲームのキャラクターをはじめとするさまざまな登場人物になりきり、即興的に台詞を重ねていくことで続くどこまでも自由な物語は、どちらかが眠たくなるまで延々と続いた(最終的には兄が恥ずかしがって幕を閉じたように憶えている)。
今になって振り返ってみると、それは自分にとって何かに見守られ、包まれていたような時間でもあった。大人になったいまでも、いつもその頃の記憶の断片はどこかで頭をよぎる。
それは自分にとって「幸せ」ということの、ゆるぎない原点でもあった。
巨きな絵が「物語」そのものというより、両端の<ふたごの根>の存在によって「物語が語られる光景」として全体をなした時、ようやく自分にとってひとつの結実が迎えられることを感じたのだった。

レジデンス・アーティストとして11月〜2月にかけて制作しているあいだ、巨きな絵を独り黙々と制作するのとは別に、もう一つの取り組みとして「かもくま珈琲」という喫茶企画を行った。
「絵と珈琲のある風景」という言葉を手掛かりに、友人のかもさんと共に月2、3回の頻度で行ったこの喫茶は、鴨江アートセンターの2階ロビースペースで自分が空間をつくり、そこでかもさんが珈琲を淹れることでかたちづくられるものだった。
お互いに初めてやることが多く、毎回試行錯誤の繰り返しだったけれど、肩肘はらずにあくまで「ぼんやりと」取り組むことを大事に、巨きな絵の制作が忙しくなってからもマイペースに続けていった。
喫茶はおもに夕方から夜にかけての開催で、平日に行うことも何度あったけれど、それでも毎回色々なお客さんや友人が足を運んでくれて、小さな団欒のような場が生まれていたように思う。


「かもくま珈琲」は巨きな絵の制作に直接関わるものではなかったかもしれない。けれど独り絵と必死に向き合い続けていた自分にとって、それは誰かとの繋がりのなかで生きていることを確かめることのできた貴重な時間だった。
「孤独か否か」ではなく、「ひとりであり、ひとつである」ということ。
巨きな絵を描くなかでずっと自分は、そのようなことを信じ続けていたように思う。
<獣>の神話的場面
<鳥>の神話的場面<四つの神話的場面>において表した各モチーフは獣→鳥→蛇→人というふうに、形態や配置の類縁性によってイメージの共鳴を呼び起こしていきながら、その全体において「転回と転生の物語」を形成するものとなった。
それに呼応するかのようにして、<四つの神話的場面>の内外に位置する3つのパート、<三十二枚の図像><ふたごの根>そして<中心の手>がしだいに導かれていくこととなった。
巨きな絵の全体構成図<四つの神話的場面>には、あらかじめ対応を考えていた「季節の巡り」(夏→秋→冬→春)があった。これは自分が木の鹿と夏に出会い、秋に枯葉の鳥と出会ったという一連の経緯をもとにした一つの絵の流れを表している。
それに加えて描写が進み徐々に全体像が明らかになるにつれて、自分でも意図していなかった「物語の動線」のようなものが浮かび上がっていった。
<三十二枚の図像>と<四つの神話的場面>の最終的な全体像<四つの神話的場面>に対し、それをふちどるいわば額縁のようなものとしてかたちづくられた<三十二枚の図像>は、制作者自身の解釈によって導き出された「四季の巡り」「物語の動線」というふたつの流れを、あくまで一つの絵解きの可能性として提示するように描き表したものだった。
「四季の巡り」は星座モチーフをはじめとする16枚のパネル、「物語の動線」は茶色いちぎり絵からなる16枚のパネルによってそれぞれ構成されている。<四つの神話的場面>と時計回りに各パネルを対応させて見ていくことで、絵の流れが浮かび上がるしかけとなっていた。
<四つの神話的場面>と<三十二枚の図像>の対応図「四季の巡り」を示すパネルのうち12枚は、黄道十二星座のモチーフたちを12ヶ月に対応するように、それぞれに割り当てて配置している(ここでは制作者の誕生日「5月1日」に対応する「おうし座」が基準となり、そこから他の星座の月配置も定めていった)。そして残る4枚のパネルには、季節と共にうつろう木の表情を四季の象徴(緑葉→紅葉→枯枝→開花)と捉えてモチーフにたくし、絵解きの際にそれぞれが対応する季節のはじまりに来るように配置した。
いっぽう「物語の動線」を示す16枚のパネルに表したモチーフは、<四つの神話的場面>の中に描かれた特定の部分をあたかも物語の一場面として抽象したものであり、それぞれが茶色いちぎり絵によって象られている。それに沿って絵を辿ると、下図のようにひとつの循環する物語の流れが浮かび上がる仕組みとなっている。
<四つの神話的場面>における「物語の動線」ここにある小さな題たちは、巨きな絵の構想中に出てきたさまざまな言葉を元に、各場面に対応するものとして割りふられたものである。いずれも自分にとっての個人的な出来事や、想像上の物語などがその源となっている。一つひとつを順番に辿っていくことで、巨きな絵の中に内在された物語を、描き手はいつでも呼び出すことができる。
このようにして<三十二枚の図像>は、特定の見方を鑑賞者にうながすものというより、あくまでも実制作者の個人的な見方として、また巨きな絵の造形を促すものとして生み出されていった。
<三十二枚の図像>部分実際に<三十二枚の図像>をつくりはじめたのは2月20日からの展示まで残り1ヶ月を切った段階であり、描写にかけられる時間的猶予は、もはやほとんど残されていなかった。
あまりにも膨大で果てしないコラージュの作業量といつまでも終わりの見えてこない状況、散らかり尽くしたアトリエと生活感の欠落しきった自宅とを往来するなかで、すっかり心身はぼろぼろになり、自分に対する半ば呆れたような笑いが幾度となくこみあげた。もともと制作に没頭すると他のことが疎かになってしまいがちだったものの、この時はあまりにも極端で、目も当てられないような光景のなかにいた。
1月のある日のアトリエ巨きな絵の制作を振り返るとき、そのような自我のみにくさをひりひりと感じながらも向き合った場面として強く印象に残っているのは、<三十二枚の図像>の茶色いちぎり絵だった。展示まで残りあと2日というタイミング、この頃には文字通り絵まみれになるようにして、部屋にもアトリエにもあちこちにコラージュの端材が飛び散っていた。
すでに見てきたように、<三十二枚の図像>はあくまで自分の主観的な見方をそこにしるすためのものであった。それと同様に茶色いちぎり絵もまた、自分にしか読めない書き文字のようなものでもいいのかもしれないと考えるようになった。むしろそのようなラフな部分が絵のなかにあることによって、種から果実へと至る絵の変遷が作品にきざまれるということは、絵全体にとっても大切なことであるように感じられた。
それまでひたすら自身を追い詰めるようにして描いていた気持ちから、ちぎり絵をはじめたときは思いきり解放されるように、初期衝動のままに描いていった。どんなにまずしいイメージであっても、そこにひとひらの聖性が宿ることを信じて。
制作中に駆け巡ったさまざまな逡巡や矛盾は、自我のおろかさと直面させられる苦しいものだった。でもそのような時間のすべてが余すことなく絵に反映されるのなら、それでこそ「十全を尽くした作品」となるのかもしれない。